サムエル下12:1−13a/Ⅰペトロ1:22−25/マルコ4:10−12,21−34/詩編109:21−31
「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」(マルコ4:11)
今日の福音書を読むとなんだかイエスが目の前の人を二つに分けている、差別しているように受け止められます。「あなたがた」と「外の人々」です。そして「あなたがた」には「神の国の秘密が打ち明けられて」いるけれども、「外の人々」には「すべてがたとえで示される」というのです。
人はだいたい物語が語られると自分を登場人物の誰かに置き換えて理解するようです。このマルコ4章11節を聞くときに、少なくともわたしたちは自分と置き換え可能な登場人物が二種類あるということになります。
もし自分と置き換えるのが「外の人々」だったらどう感じるでしょうか。イエスがわたしに語るときは「すべてがたとえで示される」となると、わたしなどはこんなふうに受け取ります。「あぁ、イエスはわたしに対して大切なことを隠しているのだな」と。「あなたがた」の方が多くて「外の人々」がわたし一人だけだったら疎外感は増幅されて相当な孤独を感じるのではないかと思います。
同じように、もし自分と置き換えるのが「あなたがた」だったらどう感じるでしょうか。単純に先ずものすごい優越感を感じるように思います。わたしはイエスにとって「外の人々」ではない、それとは違う何か特別な関係にわたしのことを置いてくださっているのだ、と。「外の人々」の方が多くて「あなたがた」がわたし一人だけだったら、その優越感の度合いは相当高まるように感じます。
そして、ひょっとしたら教会はそういうふうに考えてきたのではないかと思います。そういう捉え方の方を当然だと。洗礼なんて受けようモノならもう間違いなくわたしは「あなたがた」のグループの一員であって、つまりイエスがわたしのことを何か特別な関係に置いてくださっているのであって、それはつまり「外の人々」と決定的に違うということ。だからわたしたちはイエスさまの弟子として相応しく「外の人々」に対して何も知らない人たちなのだから優しく丁寧に接しましょう、なんて思ってしまいそうになります。
或いは、逆に考えるかも知れません。つまり、「あなたがた」と呼ばれるためには「神の国の秘密が打ち明けられて」いるはずだ、と。まるでイエスが弟子たちに対して思いっきり皮肉を言っているように見えます。でも、イエスが皮肉なんて言うはずがないとなれば、神の国についてわからないとか信じられないわたしは「あなたがた」のグループの一員ではいられなくなってしまう。そう思って自分を責め続けてしまうかも知れません。
自分をどこに・誰に置くかという点から考えれば「あなたがた」と「外の人々」という二つが分岐点ですが、話の中身で考えれば「神の国の秘密」と「たとえ」が対比される分岐点です。それがそれぞれ結びついているわけです。
この箇所で「たとえ」と訳されているギリシャ語は「παραβολή」です。これ、皆さんのお宅にもありますよ。BS放送を受信するためのアンテナ。パラボラアンテナと言いますよね。あのパラボラの元々の言葉です。で、パラボラアンテナはその形がパラボラだからそういう名前です。その形とは「放物線」です。この単語が動詞形「παραβάλλειν」になると「側に投げる」という意味になります。「パラ」が「側」、「バレイン」が「投げる」です。この「側に置く」という意味から派生して「比較する」という意味になり、そこから「寓意的な物語、寓話」となりました。これがラテン語で「parabola」と変化し「キリストのように長々と話す」というスラングにもなっているようです。
面白いですね。「たとえ」で語られるということは疎外感を生みかねないのに、「たとえ」という言葉の元々の意味は「側に置く」。疎外とは全く真反対です。そしてイエスがたとえで語られるとき、そのたとえの意味、或いは正解がたった一つではないということも大きな意味があります。「『彼らが見るには見るが、認めず、/聞くには聞くが、理解できず、/こうして、立ち帰って赦されることがない』/ようになるためである。」(同12)なんて言われると、「正解がわからないからダメ」と言われたような気になります。ところが岩波版聖書では「(にもかかわらず)彼らは立ち帰って、赦されることになるかも知れない。」と、佐藤研さんは全く逆の意味に訳しています。その方がマルコが語っている内容に沿うと。
イエスがたとえで語るのは、その方が意味が伝わるからでしょう。だから敢えてたとえで語る。そしてたとえは受け取る人によって自由にその意味を受け取ることが出来る。結果として「神の国」が10人には10色に、100人には100色に、世界中の人が一人ひとり神の国を思い描くことが出来るようになる。そこには正解も不正解も誤解もない。そんな豊かさをわたしたちに示してくれているのです。だから、たとえには驚きがある。そして驚くことは素晴らしいこと。わかる/わからないという価値判断が実につまらないことに思えてくるのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたがわたしだけと特別な関係を持ってくださる、それがわたしの慰めであり優越感でした。しかしあなたはわたしと外の人とを分け隔てるような方ではありませんでした。あなたの豊かさによってわたしたち全てをあなたは受け入れてくださっているのです。そのことの気づかせてください。わかる/わからないというわたしの判断ではなく、神さま、あなたの豊かさを信頼できますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。